年の瀬が近づき、大掃除の時期がやってきた。
とはいえ、我が家では換気扇や排水口、サッシやレンジフードなどを年に数回、定期的に掃除する習慣がある。
そのため、「大掃除」と聞いても特別身構える必要はない。
しかし一方で、毎年この時期になると必ず思い出すことがある。
「今年こそは」と意気込んでは、結局手をつけられずに終わってしまうもの──。
そう、断捨離だ。
一見すると、我が家はそれなりに片付いているように見える。だが、クローゼットや収納棚の扉の向こうは、普段目に触れない分だけ容赦なく詰め込まれ、すでに限界だ。
どこから手をつければいいのか分からず、不必要な物に囲まれた生活は、なかなかのストレスだ。
こうして今年も、ここ数年で何度目か分からない「断捨離宣言」をすることになる。
そもそも、断捨離とは何なのだろう。
もともとはヨガの思想に由来し、「断・捨・離」という3つの漢字には、それぞれ意味があるという。
【断】新しく入ってくる不要な物や情報を断つ。
【捨】すでに持っている不要な物や執着を捨てる。
【離】物事への執着から離れる(=物事を手放すことへの不安から自由になる)。
つまり断捨離とは、不要な物事との関わりを見直し、本当に必要なものだけを残すための考え方であり、行動のことだ。
英語では decluttering(ディクラタリング)や minimalism(ミニマリズム)と訳されることが多く、前者は行為としての断捨離、後者は思想としての断捨離を指すらしい。
日本で言う断捨離は、単なる片付けというよりも「いまの自分にとって必要か」「それを持ち続けることで、あるいは手放すことで、自分はどう影響を受けるのか」と、自分の視点で物を見つめ直す点に特徴がある。
その意味では、minimalism に近い考え方なのかもしれない。
断捨離を実践することで、思考や人間関係、時間の使い方まで整っていく──そんな話も耳にする。
では、なぜ我が家の断捨離は、いつも失敗に終わるのだろうか。3つの漢字に沿って考えてみることにした。
まず【断】。
人生も半ばを過ぎ、新しく欲しいものは随分減った。衝動買いはせず、よく吟味してから購入するようにしている。物を増やさない努力は、できているほうだと思う。
問題は【捨】だ。
「不要」と判断する基準が高く、「1年待って、それでも必要なければ捨てよう」という考えが、いつの間にか常套句になっている。加えて、「いつかまた必要になるかもしれない」という信仰も、なかなか手強い。
さらに【離】。
使用頻度の高い必需品に対する備蓄意識が強すぎる。気に入った文具や衣類が品切れや生産終了になるのを恐れて、最初から複数買いしてしまう。
こうして振り返ると、【断】は悪くない。問題は明らかに【捨】と【離】だ。要するに、自分の生活様式に対する固執が強すぎるのである。
少し前に、“仏教では執着が苦しみを生むと説かれている”という話を聞いた。もっとも、それは程度の問題ではあるのだが。
そんな唐突な話が心に残るのには理由がある。
年齢を重ねるにつれ、周囲に対して「こうしたほうがいい」「こうあるべきだ」と感じることが増えた。当然、周囲とのズレも生まれる。自分の考えに執着し、理解してもらおうとすればするほど、残るのは苦しさだけだった。
良かれと思ってとっていた行動が、実は「執着」となり、生活を重くしていたのだと気づく。
もしも自分をその執着から解放できたなら、【捨】と【離】は成就するのだろうか。
人生の後半を、どう生きるのか。
そんなことを考え始めた今度こそ、断捨離は成功する──そんな予感が、ほんの少しだけしている。
